偉大なる「先生」

保育をしていて最も偉大だと思った「先生」の話をします。

私達はこどもの育つ力に働きかけるため、知的欲求を刺激するたくさんの選択肢をこどもに与えようと努力します。しかしこどもの成長は早く、興味の世界もどんどん変わるので、私達は一年中教材や環境を考え、入れ替え、また次の興味に備えます。観察がおろそかになるとこどもの興味と環境がはなれ、環境とこどもを繋ぐことが困難になります。そうなると集中現象をつくりにくくなり、こども達はしたい事が見つからず動き回るようになり、部屋は騒がしくなり、先生は大変になり、ひとりでは見切れないという事態になってしまいます。

そうならないように日々こどもの心の動きを観察し、興味ある環境を拡げる事に私達は努力を惜しみません。そういう事が苦も無く自然体で一年中できるのが偉大な先生なのでしょう。私がそんな偉大な先生に出会ってしまった話です。その先生は毎日同じところに居て、動く事もなく、言葉すら発しない。だから当然こどもを叱ることも褒めることもない。ただじっとそこに居る。ただ一つだけ毎日している事がある。それは「ちょっとした変化をもたらす」ことである。こどもはその変化を発見し、その変化に様々に反応し、自分で考え遊んだり関わったりしています。その先生とは一本の木、ウィズチャイルド【こどもリビング】の庭にあるつどいの木。毎日そこにある同じ木なのに、こども達は毎日そこで遊び、しかも一年中遊んでも飽きることがないのです。これは日々環境を進化させようと奮闘している保育士からすれば嫉妬するほど羨ましいことです。ずっとそこにあるだけなのに、こども達は一年中そこで遊ぶんです。飽きないんです。でも実は毎日何かがちょっと違う、そして毎年の姿も違う。大木になると一見違いはわからないものですが、いつも木に登ったり触れたりしているこども達からすると、その変化はいつも神秘的で魅力的に働きかけてくれるのです。私はその姿を見ていて「命と命のこすれ合い」を感じました。葉をつけ実をつけ色を変え落ちたり枯れたりする木、匂いや湿り具合や天気によっても木は姿を変えます。虫がやってきて卵を産んだり、鳥がやってきてその虫や木の実を食べたりします。鳥によって運ばれた種は糞と一緒にまたどこかの土に落ち芽吹きます。人もまたそういった命と命の関係性の中に居てこそ「生きている」と感じる事ができるのではないでしょうか。

全ての自然はいつも姿をちょっとずつ変えながら存在しています。偉大なる先生「自然」。こども達の育ちにおいて、我々大人はどこまで自然との触れ合いを重要視しているでしょうか。こどもにとって「自然は」大の仲良しの遊び相手であり、そして偉大な先生なのです。多感な時期に一時でも多く一緒に居させてあげたいと思います。

 

また、私達大人が、その偉大なる先生或いは大の仲良しと夢中に関わるわずかなこどもの時間に対し「もう終わりにしなさい。」という権利はおそらくないのです。

 

まとめ。一保育士として、いつでもこどもの心とつながり、叱りもせず褒めもせず、直接こちらからは関わらずとも寄ってきてもらえる存在で、いつでもちょっとした変化を提供できる自然体の魅力的な存在でありたい、そう思った次第です。